疲れの正体は、情報ではありませんでした。
「判断」です。
ある日、試しに数えてみたんです。
午前中だけで、自分がAIツールの「選択」を何回繰り返したか。
ChatGPTにするか、Claudeにするか。
この回答は本当に正しいのか。微修正をしてそのまま使うか。
次はどのプロンプトを試すべきか。
結果は、23回。
昼前にはすでに、23回もの細かい選択をしていました。
効率化のためのツールを増やしているのに、なぜか消耗していく。
それは、情報の海に溺れていたからではありません。
「選ぶ行為」そのものが、脳のリソースを凄まじい勢いで食い潰していたんです。
1週間、Notionを開けなかった
メモもスケジュールも、すべてNotionで完結させようとした時期があります。
「これで人生が変わる」という言葉を信じ、それが唯一の正解だと疑っていませんでした。
でも、現実は違った。
目的のページを開くまでの、あのほんのわずかなラグ。
「このメモはどの階層に保存するのが正解か」という終わりのない迷い。
そんな小さな摩擦が積み重なった結果。
気づけば1週間、一度もアプリを開いていませんでした。

多機能であることは、無数の選択肢を生み出します。
選択肢があるから迷い、迷うから脳がすり減っていく。
道具は、何でもできる必要なんてなかったんです。
むしろ「これしかできない」という強烈な制限こそが、道具の優しさだったのかもしれません。
大きすぎる道具が運んでくる「罪悪感」
Mac mini M4を買ったときも、同じでした。
完璧な機械です。処理速度に文句なんて一つもありません。
でも、使うたびに少しずつ、胸の奥に重たいものが沈んでいきました。
「自分は、どう考えてもこのスペックを持て余している」

カフェで作業しようと外へ出て、手元にノートPCがないことに絶望して帰宅する。
デスクから離れたM4は、ただの静かすぎる金属の箱でした。
ログイン画面を見るたびに、薄ら寒い敗北感がありました。
高性能な道具は、箱の中に「使いこなせという罪悪感」を詰め込んで届けてきます。
型落ちのM1に戻して、世界が静かになった
思い切って、MacBook Air M1に戻しました。
今の基準で見れば、スペックは半分以下。使い古された型落ち品です。
でも、文章を書くのにも、写真を整理するのにも、全く問題はありませんでした。

そのとき、自分がいかに「最新」というプレッシャーに囚われていたかに気づいた。
自分にとっての本当の用途は、持て余すほどのパワーなんて必要としていなかった。
あの日から、僕の思考は驚くほど静かになりました。
半径1メートルの結界を張る
もうひとつ、あえて「不自由」を選んだ話を紹介します。
ワイヤレスイヤホンを手放し、昔ながらの有線イヤホンをMacに刺したんです。
ケーブルが繋がった瞬間。
自分とPCの間に「ここからは動けない」という物理的な制約が生まれました。
まるで、半径1メートルの見えない結界が張られたような感覚です。

席を立つにも、スマホを操作するにも、ちょっとした手間がかかる。
でも、その不自由さが「今は目の前の画面だけを見ろ」という命令に変わりました。
ワイヤレスイヤホンが奪っていたのは、ケーブルの煩わしさではありません。
「今、間違いなくここにいる」という、強烈な肉体感覚だったんです。
スペック競争から降りるという生存戦略
自分が今使っている道具は、開くたびに「選ぶ行為」を強要してはいないか。
充電のたびに「お世話」をさせられてはいないか。
もしそうなら、僕たちは道具を使っているつもりで、いつの間にか道具に飼い慣らされています。
スペック競争から降りることは、決して逃げではありません。

他人の評価軸ではなく、自分の心地よさを基準にして選ぶということ。
自分にとっての「十分」を、自分で決断するということです。
道具の気配が消え、ただひたすらに没入していく静かな時間。
それを手に入れるための、これが僕なりの生存戦略です。

